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電車のなかでふと

ふと、ブッダについて考える。ブッダの教えの根本は、生きる苦しみから逃れるには、物事に執着するな。だと思う。僕の浅い理解だと。

求不得苦。求めて得られない苦しみ。愛別離苦。愛するものと別れなければらない苦しみ。それが嫌なら、最初から求めるな。それが嫌なら最初から愛するな。いかなるものにも囚われるな。だから、家族を捨てて、出家して、修行する。若い女性に目を奪われる弟子が、どうしたらよいかとブッダに聞く。ブッダは、見るな、と答える。

でもそれじゃ、つまらんよね。そういう方法で苦しみをなくすのも至難の業だけど、仮に苦しみがなくなっても、喜びもないでしょう。それじゃ。

ブッダの教えを切り捨てられるほど、ブッダの教えを理解してるわけはないけれど、なぜか今日はふとそんなことを思った。
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by tuscanycafe | 2010-09-02 00:14 | 思う | Comments(0)

hotoke

空前の仏像ブームがやってきた、ような気がする。「週刊 日本の仏像」なんて雑誌が創刊されて、TVコマーシャルまでやっているし、他の雑誌でも仏像特集をやっていた。少し前に東博でやっていた仏像展も、大入り満員だった。

気にしていない人は、全然気にしていないでしょうが、まあブームなんてそんなもんですよね。

というわけで、

個人的な、仏像ベスト5。
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by tuscanycafe | 2007-05-29 00:36 | 好む | Comments(4)

hotokeログ 4 (final)

さて、そろそろhotokeシリーズも終わりにしよう。(ってまだ本題に行っていないのに。)

いろんな宗教のなかで、原始的な宗教は、一般的に、教義の整った世界的な宗教よりも下に見られているように思う。でも、原始的な宗教が本当に劣るのか、疑問に思う。

そもそも、教義の発展した世界的な宗教といっても、所詮は人間が考えたこと。一人の天才が現れて、例えば神のお告げを受けたと宣言する。その人間的な魅力も相まって、その天才の信奉者が増える。その天才の教えは語り継がれ、後世の人がそれをベースに考えたことを付け加えていく。

でも、宗教を人と神との関係と捉えるならば、そうやって整理され語り継がれてきた教義よりも、原始的な宗教における人と神との関係の方が、もっと直感的で、手垢がついておらず、本来の姿に近い気がする。宗教における教義は、人に対して道徳的な生き方を促す面では、社会の安定に役立ってきたと思うが、教義などない原始宗教に比べると、神との距離は遠くなり、教祖という人間との距離だけが近くなっている気がする。(よりよく生きる、という利点は勿論あるが。)

日本の原始宗教では、森に神を見、木に神を見る。静かな森で神を感じる。それは、宗教施設で神の教え(と呼ばれるもの)を聞くよりも、よほど神秘的で、(神がいるならば)神に近づく経験ではないか。そういう意味では、原始宗教ではなくとも、例えば、仏教徒が高野山や比叡山で修行を積み、自然や自分の内なるものと対話するのは、本来的な宗教のあり方に近い気がする。

でも、仏教の場合は、他の宗教とは違い、絶対的な存在である神との対話をするわけではないと思う。仏教徒が修行をするのは、悟りを得るためだと思う。そして、悟りを得る目的は、この人生の苦から開放されるためだと思う。

仏教の根本的な教えに、四諦という言葉がある。四諦とはお釈迦様が語った4つの真理のこと。人生には苦があること(苦諦)。苦には原因があること(集諦)。原因を取り除けば苦がなくなること(滅諦)。苦をなくす方法があること(道諦)。苦とは、生老病死や愛別離苦(愛する者との別れ)、求不得苦(求めても得られないこと)などの八つの苦しみ(四苦八苦)を指す。そして、仏教は、苦をなくすための方法を説く。

そういう意味では、仏教というのは、他の宗教と違い、神が命ずることに従え、と説くのではなく、楽になるためにはこうした方がいいよ、という教えなのだ。だとすると、これは一般的な意味での宗教なのか、という疑問も湧いてくる。絶対的な存在である神との対話ではなく、人生の苦しみからどうやって解放されるかという方法論、極端に軽く言えば、ハウツーものだ。(このあたりはすべて、僕が理解したことを書いているだけなので、違うよと言われるかもしれないが。)

梅原猛氏の本で面白いと思ったことがある。これも彼の表現をさらにパラフレーズして言わせて貰うと、仏教の根本的な教えが3つあるという。それは、自由と平等と愛だ。まるでフランス革命か、ヒッピームーブメントみたいでしょ。

勿論、伝統的な仏教の用語とは違うし、逆に、一般的な用語の意味とも違う。一般的な西洋的な意味での自由は、公権力からの自由のこと。でも、ここでいう自由とは、こだわりからの自由、欲望からの自由であり、概念からの自由だ。それによって、俗世界での苦しみから解放されようということ。

平等は、一般的、西洋的な意味と同じだと思う。お釈迦様は、カースト制度の厳しいインドに生まれながら、今から2500年ほども前に、すべての人は平等であると説いた。驚くべきことだと思う。

愛。これは、男女間のような愛(渇愛ともいう)ではなく、親から子に対するような愛(慈愛)のここと。前者の愛は、裏切られれば憎しみに変貌したりするが、後者の愛は無条件の愛。お釈迦様は、すべての人に対して、慈愛を抱けと説く。そして、これも人生の苦しみから開放されるための方法論として。

梅原氏いわく、仏教には多様な宗派があるが、この3つの原理を維持しているものは、すべて仏教と呼んでいいだろうとのこと。

人は必ず死ぬ。40に近づいてくると、嫌でも、人生も半分終わったことを意識させられる。そういう話はブログで書くには重過ぎるけど、かっこつけて気取ってたり、どうでもいいことにこだわって悩んでいると、死ぬときにきっと後悔する。色即是空。空即是色。仏教の教えを読んでいると、本来の趣旨とは少し違うかもしれないが、つまらないことに心惑わされるはやめて、自分の大切なものに従って豊かに生きよう、と思えてくる。

そういう意味で、このタイミングで、最初は単純に彫像としての仏像への関心から始まりながら、仏教への関心へと広がっていったのは、よかったなと思うし、これからもしばらく、そういう方面を勉強してみようかと思う。

これにてhotokeシリーズは一応終わり。
今回の内容は、真面目にちゃんと書こうとすると、結構難しかったけど、飲んで帰ってきて、一気に書いてしまいました。さて、明日のために、もう寝よう。
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by tuscanycafe | 2007-01-13 01:47 | 思う | Comments(2)

hotokeログ 3

重い腰をあげて、hotokeログの続きを。

宗教には胡散臭さが付き物です。
金目当ての新興宗教は言うまでもありませんが、歴史のある宗教でも、教祖にまつわる逸話(超常現象)など、俄かに信じられない話が少なくありません。

僕は無宗教ですが、なぜ無宗教かというと、このあたりの事情と関係している気がします。物心ついた頃から繰り返し刷り込まれれば別ですが、そうでなければ簡単に信じられない話が多いからです。教祖にまつわる超常現象を誰が言い出したのか、ということも気になってしまいます。後世の信者が勝手に言い出したことならばまだよいとして、教祖が自分で言い出したのだとしたら、なおさら懐疑的にならざるを得ません。

仏教とて例外ではありません。お釈迦様は、お母さんの腋(わき)の下から生まれたそうです。しかも、生まれてすぐに七歩歩き、天上天下唯我独尊(この世で自分だけが尊い)と言ったそうです。とても事実とは思えません。 

(ただし、仏教に関して言えば、これらの逸話は、教義の一部を占めておらず、単なるエピソードの位置づけだと思うので、個人的にはさほど気にはなりません。それに、腋の下から生まれた逸話が、お釈迦様の神聖性を高めるためのものだとすれば、それが功を奏しているとも思えないので、むしろ微笑ましい気もします。)

それから、宗教の戒律もしっくりきません。何を食べてはいけないとか、何曜日に何をしちゃいけないとか、どうして神様がそんなことを気にするのか、正直言ってよく分かりません。(with all due respectですが・・。)

だから自分にとって、今さら特定の宗教を信じるのは難しいのですが、宗教を持たないというのは、つらいことでもあります。何をすべきか、何が正しいことか、といったことを、すべて自分で考えないといけないからです。思春期から大学くらいにかけて、そんなことをよく考えていたのを思い出します。何のために生きるか。人生に目的はあるか。宗教を持たない者の答えは、「与えられた目的はない。好きに生きろ。」になると思います。でも、それは結構きつい。

梅原猛氏は、今の日本人は宗教を持たないがゆえに、道徳心も薄れているといいます。そして、彼自身は、特定の宗教を信じていないが、「知られざる神々」を信じているといいます。この世界は、分からないことだらけです。どうやって宇宙ができたのか。宇宙ができる前は、そこに何があったのか。どうやって命は生まれるのか。命が終わった後、どこへ行くのか。・・等々。そういったことを司る神様が存在するのかどうかも分かりません。仮に、そういう神様が存在するとして、どの宗教がその神様の声を正しく伝えているのか、それも分かりません。

でも、特定の宗教が伝える神様ではなく、科学で説明できるこの世界を超える存在(すなわち、知られざる神々)がある、ということならば、そうかもしれないと思えます。そうかもしれないと言っている時点で、完全に信じているわけではありませんが、信じてもいいかもと思える時点で、半歩前進です。

ただ、ひねくれ者には次のハードルが。その「知られざる神々」の存在を信じたとしても、その神々が一人ひとりの人間の行動になど興味を持っているかどうか分からないので、その存在を信じることが、即、よりよく生きることにはつながりません。そういう意味では、この「知られざる神々」という言葉を知ったからと言って、すぐに何が変わるわけでもありません。ただ、こういう考え方もあるのだな、と新鮮に感じ、神様との距離が少し縮まった気がします。

さて、なかなか本題に到達しないのですが、次こそは、仏教の話に行きます。
こんな長文に付き合ってくれた人(果たしているのか)に感謝しつつ・・・つづく

追伸 
ひっさびさにスキンを変えました。内容と違って爽やか路線で。字が薄くて読みにくいですかね?
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by tuscanycafe | 2007-01-07 01:28 | 思う | Comments(0)

hotokeログ 2

仏像には、西洋の彫刻とは違う魅力がある。まず、西洋の彫刻に比べると、造形が人間離れしている。単純化されていたり、誇張されていたり、実際の人間の顔や体としては、あり得ないものが多い。

それでも、美しい仏像を見るときの感覚は、美しい人を見るときに似ている。街で見かけた綺麗な人に見とれてしまうときの感覚に似ている。だから、仏像だったらなんでもいいわけでは決してない。あくまでも上質で美しい仏像に限るのだ。それは、顔が綺麗でスタイルのいい女の子に惚れるのと、大差がないのかもしれない。

それでも、仏像の美しさは、外見だけではない。木や金属でできた仏像に、外見以外の何があるのか、と言われるかもしれない。でも、仏像には、顔や体の造形だけでなく、内面から滲み出てくる美しさがある。いい仏像は、顔の造形が美しいだけでなく、慈しみや、憤怒の感情が、にじみ出ている。こういう点も含めて、仏像に惚れるのは、人に惚れるのと似ている気がする。

仏像の魅力は、圧倒的に、このような美しさや厳かさだと思う。でも、このほかにもっと俗な魅力もある。それは、登場人物が多く、その関係性を楽しめることだ。これは、ポケモンのカードを集める楽しみに似ている(集めたことはないが、多分そうだ)。登場人物が多くて、それぞれに色んな役割や特徴がある。

例えば・・・・
阿弥陀如来の住まいは西の極楽浄土で、薬師如来は東の浄瑠璃世界。観音菩薩は如来になれるのに、衆生を救うために菩薩のままでいる(この辺りは本によって説明が違う)。十二神将の仕事は、薬師如来の専属ガードマン。四天王のうち多聞天は、ソロ活動のときは毘沙門天に名前が変わる。四天王に踏まれている邪鬼は、四天王に退治されているのではなく、自ら望んで踏み台になっている。

・・・・などと、書き出したらきりがないが、それぞれのキャラが立っていて、飽きさせない。こういうのは、仏の教えを伝えるために必要な部分もあるだろうが、それよりも、宗教が庶民を惹きつけるための効果的な仕掛けとして頷ける。

そして、それぞれの仏像(仏様)の役割を理解していくと、こういうポケモン的楽しみだけではなく、自然と仏教の教えに興味が行くようになる。阿弥陀如来はどういう役割で、大日如来はどういう存在か、ということを聞いているうちに、自然と、仏教とその各宗派の教えに触れることになるからだ。

というわけで、次に手に取ったのが、「梅原猛の授業 仏教」だった。この本も、初心者向けの素晴らしい本で、書きたいことがたくさんあるので、再び次回へ。実は、次回が一番書きたかった部分です。

つづく。
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by tuscanycafe | 2006-12-26 00:03 | 好む | Comments(2)

hotokeログ 1 (intro.)

「仏像のひみつ」(山本 勉) => 「見仏記」(みうらじゅん&いとうせいこう) => 「土門拳 古寺を訪ねて」 => 「梅原猛の授業 仏教」 => 「やさしい仏像の見方」(西村 公朝) => 「現代語訳 般若心経」(玄侑 宗久)

中学高校の頃、遠足(社会学習って呼んでたっけ?)で京都や奈良によく行った。目的地は当然お寺。退屈でしょうがなかった。というより、お寺に着いた途端に、抜け出して別の場所でふらふら遊んでた。

a0029712_23273525.jpgそれが今、旅行と言えば京都、奈良を望み、目的地は当然お寺。昔京都に住んでたのが嘘のようだ(寺なんか興味なかった)。それどころか、根っからの無宗教の自分が、般若心経の本にまで手を出すようになってしまった。

今年の春、東京国立博物館で「最澄と天台の国宝」展というのがあった。仏像を見て感動したのは、たしかその時がはじめてだったと思う。

そしてその後、京都旅行の際に立ち寄った三十三間堂。行く前は知らなかったが、あそこは、仏像好きには決して外すことのできない場所だ。(みうらじゅんの見仏記の第一巻に出てくるくらいだし(?)。) 1001体の千手観音も圧巻だが、その前を陣取る風神・雷神や二十八部衆像が、厳かだったり、清らかだったり、かっこよかったりと忙しい。オールスターキャストだ。

そんなこんなで、夏の暑い日、涼みに入った本屋で手に取ったのが、前にも紹介した「仏像のひみつ」という本だった。東博の元学芸員が書いた、この最高の入門書が、hotokeログのスタートだった。

つづく。
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by tuscanycafe | 2006-12-24 23:29 | 好む | Comments(0)