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truth for me

"真実に生きること
これはカフカが自分の日記だか、手紙だかで用いた決まり文句である。(略)

サビナにとっては真実に生きるということ、自分にも他人にもいつわらないということは、観客なしに生きるという前提でのみ可能となる。われわれの行動を誰かが注目しているときには、望むと望まないとにかかわらず、その目を意識せざるをえず、やっていることの何ひとつとして真実ではなくなる。観客を持ったり、観客を意識することは嘘の中で生きることを意味する。(略)

フランツの方は逆に、人がプライベートなときと公の場でまったくの別人になるという、個人の生活と公人としての生活の区分の中にあらゆるいつわりの源があることを確信している。彼にとっては「真実に生きる」ことは個人と公人の間の境をとり払うことを意味している。そして秘密は何ひとつなく、誰でもが見ることのできる「ガラスの家に」住みたいというアンドレ・ブルトンの文を喜んで引用するのである。"

クンデラの「存在の耐えられない軽さ」を読んでいる。上は、千野栄一訳からの引用。自然体でフランツのように生きられる人は羨ましいし、幸せだろうと思う。それはおそらく自分の価値観と世の中で主流の規範とが近いからできること。あるいは、周囲の反響を全く意に介さない強さを持っているか。そうでなければ、それは自然体とはならず窮屈だろう。

僕は断然サビナのほうに共感する。自分が大事にしていることを周りに話しても理解してもらえないことが多く、逆にどうでもいいと思っていることを基準に非難されることも多い。だから、観客のいるときは観客を意識して「正しい行動」をするが、それは自分を守るためにやっていることなので、それ自体には価値を感じられない。逆に、自分が大事にしていることは、誰にも言わずに勝手にやるし、人から何も言われなくても自己満足できる。

それにしてもこの小説は面白い。ただ面白いだけでなく、普段ぼんやり思っていることを立体的に切り出してくれる場面が多く、それでいてまだ靄のかかった部分もあるので、これから何度か読み返してみる価値がある気がする。各登場人物の個性が一見対照的なように見えて、それぞれに共感もできるのは、それぞれが一人の人間の多面的な部分を表しているのかもしれない。

そこからの対比で思い出したのだが、村上春樹の1Q84のエンディングは、ああいうおとぎ話のようなものでいいのだろうか。それを批判する感想はまだ読んだことがないが、個人的には手抜きのように感じてしまう。リアリティがなく、単に収まりがいいところに逃げた感じがする。物語としては物凄く面白く、引き込まれるように読んだのだが、それだけに台無しのように感じた。皆は不満に思わなかったのかな。
by tuscanycafe | 2012-10-01 23:39 | 観る読む聴く
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