カテゴリ:思う( 140 )

無駄遣い

日比谷の新しいビルにできた有隣堂書店の新形態店のニュースを新聞で読んで興味を持ち、その後オープンまでの準備を追ったドキュメンタリーをテレビで見て、こりゃダメだろうなと思い、実際に訪れてやっぱりなと思った。

その店は本屋と居酒屋と床屋と眼鏡屋と洋服屋が一体になった店で、一日いても楽しい街のようなお店といったコンセプトらしいが、眼鏡を買って服を買って散髪して酒を飲みたい日が年に何回あるか分からないし、そもそも同じ店のなかに全部揃っていても何も嬉しくない。それに、それらの店が本屋と一緒になっていることで得られる楽しさが何もない。

ドキュメンタリーを見る限り、有隣堂が三井不動産から紹介されたデザイナーの遊びに付き合わされて大金をどぶに捨てただけというのが真実だと思う。もうオープンして数ヵ月たったので、今頃は有隣堂の経営者も後悔していると思う。

本屋は、本好きが作るべきなのだ。だから、この有隣堂にできたセレクト書棚のようなものは面白い。(ただし、セレクトする人は、「この店舗に関わった人」といった運営者側の自己満足ではなくて、訪れる人が読んでみたいと思える人を選ぶべきなのだ。それもアイドルとか人気タレントではなく、本好きを唸らせる選者を選ぶべきなのだ。) この日比谷店で一番面白いと思えた書棚は有隣堂の店長のセレクトによるものだった。その人だけが本好きで、他の人は自分の仕事や趣味の世界の本を並べているだけ、あるいは気取っているだけのように見えた。本以外のスペースを全部潰して、たくさんのユニークな選者によるセレクト書棚だけの本屋にすれば面白いと思う。

たまたまその向かいのビルにできたHMVによるCottageという本屋はいいと思った。ヅカファンやジャニーズファン向けのコーナーは邪魔だが、それ以外のコーナーはいいセレクトをしてると思う。海外では本屋がどんどんなくなっている気がするが、日本ではセレクト本屋の勢いがあるのが嬉しい。

たまたま訪れた川崎駅ビルの有隣堂がとても良かったので、なんだ、やればできるじゃん、と思った。どんな商売でも、商品に情熱を持っている人が作ったものでないと、お客の心にも決して響かないといういい証拠だと思う。


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by TuscanyCafe | 2018-09-02 14:43 | 思う | Comments(0)

mundane life

僕らは特に何をするでもなくだらだらと毎週金曜の深夜遅くまで過ごしていた。僕らは決して付き合っていたわけではないが、その人はその時間をmundane lifeにおける特別なもの、と表現し、僕はmundane(平凡な、ありふれた)という単語を学んだ。

当たり前だと思っていた時間がどれ程貴重なものだったのかは終わってから初めて分かる、というのは、もはやJpopの歌詞に出そうなclicheの領域だが、実際にそうだった。

今はその喪失感から抜け出して暫く立つが、それでも時々こうして思い出す。

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by TuscanyCafe | 2018-08-26 12:02 | 思う | Comments(0)

タブー

小学生の頃の運動能力は男女同じくらいだったのが、大きくなるにつれ、男の方が強く、速くなった。それは成長に伴うホルモンの影響なのだろう。

思い出してみると、学力も小学生の頃は男女の平均が同じくらいだったのに、大学受験になると男の方が平均で上回り、一流大学の男女比は、圧倒的に男の方が多かった。

これはなぜなんだろう。これもホルモンのせいなのか、それとも社会的な要因なのか。でもテストの採点で男が贔屓されることはないから、もしも社会的な影響があるとしたら、「女の子は勉強しなくていい」的な発想の影響がまだあったのかどうか。(実際男は、大人になる過程で、家族数人を養う経済力をつけることを否応なく意識させられるのに対し、女性でその意識を持っていた人は多くないと思う。)

社会人になると、学力とは別の構想力とかコミュニケーション能力とかも大事になるので、異種格闘技のようになる。これまでビジネスの世界で男が優勢だったのは、社会的な背景が圧倒的に大きいので、これは縮んでいくと思う。女が男化するのではなく、むしろ多様な成功の形が現れたら面白いと思う。

よく分からないのは学力で、テストで求められる論理性みたいなものとホルモンの関係があるのかしらんとも思う。フェミニズム原理主義者のように男女の能力は全て同等と決めつけずに、男女の違いを生物学✕統計学的に解明すれば面白いんじゃないかと思う。

個々人の差は大きいしステレオタイプ化する必要はないが、平均値としての差がなぜ起こるのか。PC(politically correct)が行き過ぎて全て社会的要因だと言っていると、多分間違うと思う。

娘の成績が高校になって落ちてきたのは何なんだろうと考えたところから、考えが飛躍してしまった。


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by TuscanyCafe | 2018-06-24 11:12 | 思う | Comments(0)

縮図

ゴルフを始めたのは海外だが、日本に帰ってからも続けている。海外のやり方に慣れた目から見ると、日本のゴルフには不思議なところが沢山ある。

海外でやるときは、家からゴルフウェアで出かけていたが、日本では少なからずジャケット着用を義務付けていたり、ジーンズを禁止していたりする。また海外では朝から1ラウンド回って昼飯を食べて家に帰ると3時か4時だったが、日本では1ラウンドの途中で昼飯を食べるのがマストになっていて、家に帰ると6時か7時になったりする。海外では、ロッカールームで服を脱いでタオルを巻いてシャワー室に向かったが、日本だとロッカールームで靴だけスリッパに履き替えて、着替えの服を抱えて風呂場に移動しなければならない。

それぞれの慣行には元々の意味があったのだろうが、全く非合理的で、利用者目線になっていない。ジャケット着用というのは元々身だしなみを整えようというはずなのに、合わない格好に無理やりジャケットを着るのですごく垢抜けないし、ジーンズでまとめた方がよっぽどきれいに見えたりする。日本には、トヨタのカイゼンみたいに無駄を減らす文化もあるはずなのに、その目線が生活の改善には向かっていない。そもそもマナーの感覚に任せるところをルールにするから歪になる。運営会社内の論理とか、前例踏襲とかで、変な慣行がそのままになり、利用者は置いていかれる。利用者は、そのおかしさに気づいていないことも多いし、気づいても「そういうものだから」と思っている。

日本ではゴルフが企業社会の一部だったせいか、会社とか学校とか日本のいろんな場所の理不尽の縮図がここにあるんじゃないかと思う。土曜の朝早く起きてゴルフ場に向かう電車でこんな長文を書きたくなるほど、アホらしいと思っている。



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by TuscanyCafe | 2018-05-19 06:35 | 思う | Comments(0)

できる

この歳になってからまだ自分のできることが増えるのは嬉しいのだけれど、もっと若いときからできていてもいいのに、と思うこともある。

仕事に関しては、経験を積んだ今だからできるようになった、分かるようになった、と思えることも多く、それは当然のことだから構わない。気になるのは仕事以外のことだ。

例えば大勢の人を笑わせたりとか、大勢の人の前で照れずに馬鹿なことができたりとか。自意識過剰が抜けてきたのか、自信がついてきたのか分からないけど、わりとできるようになった。(それでもまだ得意というほどではないけど。)海外で経営者をしてた時にその使命感でやり始めたのもきっかけかもしれない。

でもこの手のことは、僕の周りの若い奴らは最初からできるから、漸くできるようになるのもなんだかなぁとも思う。それに僕もずっと昔の小学生の頃はむしろ得意だったのに、中学の頃に自意識過剰になって苦手になり、それが元に戻るのにこんなに時間がかかってしまった。とはいえそう思いつつも、結構な間苦手だったことができるようにになるのは、いい気分ではあるのだ。


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by TuscanyCafe | 2017-12-26 00:00 | 思う | Comments(0)

人に関心を持ちつつ、人の目を気にしない。
簡単じゃないけど、それが大事だと思う。



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by TuscanyCafe | 2017-11-01 08:38 | 思う | Comments(0)

just let go

昔いろんなことがあった人の消息を久しぶりに聞いて、まだこんなに動揺する自分に、思いのほか動揺した。前は1年ほどの間、その人のことを考えない日はなかったが、もう会わなくなって時間が経ち、最近では考えない日の方が多くなっていた。あの頃は本当にぼろぼろだった。またすぐに忘れられることをただ願う。
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by TuscanyCafe | 2017-07-24 23:37 | 思う | Comments(0)

讃えよ

自分の投稿の下に表示される似たカテゴリの記事で、去年の投稿を読んだ。何月頃かを見て、よくあの状況でちゃんと暮らしてたな、、と感心した。自画自賛!
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by TuscanyCafe | 2016-10-05 01:10 | 思う | Comments(0)

empty

昔ネパールで仕事をしていた人が、カーストの最下層の人たちの暮らしについて話していた。その人たちは本当に犬以下の扱いを受けていて、犬もそのことを知っているかのように、その人たちのことを威嚇して追い払ったりするという。

他の人も以前に、インドに行くと本当に死んだ目をした人たちがいる、と言っていた。いくら頑張ってもよい暮らしをすることは不可能で、全く希望を無くしてしまった目。

そのネパールにいた方は、NPOの人たちについて語り出し、NPOは捕鯨に反対するかと思えば、カーストの最下層の人を助けようとするが、現地の社会にがっちり根付いた制度だから、どうしようもない。やるだけ無駄だ、何もわかってない、と言う。

僕はそれに違和感を感じながらも、何も言葉にしなかった。捕鯨の話が出たときに僕の予想した話は、反捕鯨活動の暇があるならば、その人たちを救えと言うのかと思ったら、全く違った。

自分がその立場に置かれて一番つらいのは、中国で表現の自由を奪われることよりも、内戦前のシリアでアサドの圧政下に置かれるよりも、きっとカーストの最下層で何の希望も持てないことではないかと思う。あるいは強烈な因襲のなかで物のように扱われる女子たち。

でもその人たちのために今具体的に動き出そうという気持ちがない以上、その人たちをなんとか救えないものか、という言葉はあまりに空っぽに思えた。
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by TuscanyCafe | 2016-07-20 00:23 | 思う | Comments(0)

雑文

今日、うちのローカルエンジニアの状況分析が、日本から来たアドバイザーの見立てと殆ど一緒で、アドバイザーも感心していた、という話を聞いて、それは嬉しいねぇ、と言いながら、涙腺が緩んでくるのに気付いた。何も泣くほどの話ではないから、まずいと思って顔をそむけた。

時々こういうことがあって、歳をとると無意味に涙腺が緩むのかな、とも思うが、全く脈略なく緩むわけではなく、やはり思い入れのあることについて、涙腺が緩むのだと思う。そういう意味で、そういう気持ちが残っていることに少し嬉しくなる。ほんの1週間ほど前には、生きてても何の希望もねえなーと思った記憶もあるし、それは多分今もあまり変わらないから、余計にそう感じたのだと思う。仕事にやりがいも感じるし、週末も充実しているし、大切な友人もいるが、それと大きな意味での希望とはまた別物だと思う。

愛というのはなんだろうと考えると、基本的には、大好きというのと殆ど同じじゃないかと思ったりもする。あぁ違うか。会ったこともない異国の人の安全や健康を願うような、そういう愛は当てはまらない。でも言いたかったのは、執着するほどに好きなもの、それが人であれ物であれ場所であれ、愛と呼んで大差はないのではないかと思う。今は。

だとすると、人でなくとも、物でも空間でも活動でも事業でも、自分の好きなもの、大切にしたいものに正直に時間を使えばよいのではないかと思う。どうせ死んでしまって灰になる運命なのに、社会的な責任をもとに優先順位を決めていると、廃人のようになってしまう。
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by TuscanyCafe | 2016-07-14 00:06 | 思う | Comments(0)